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福祉(2)

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 05年の介護保険制度の改正で、厚生労働省は介護予防システムの導入を目指している。要介護認定者の半分を占める要支援、要介護1の高齢者に筋力トレーニングや栄養指導などをする一方、調理や掃除といった家事代行など利用できるサービスが経る可能性がある。寝たきりになったり、痴呆になったりするのを防ぎ、急増するサービス給付費を抑えるのが狙い。本当の効果はあるのか、問題はないのか。・・・・・(朝日新聞11月25日(木)朝刊)

 最初に読んだとき、分かり難いこと書いてあるなと思った。要するに、介護が必要な高齢者で、「要支援」と「要介護1」と認定された人が、家事代行等のサービスを利用するようになり、介護保険料では賄えなくなる恐れがある(何せ4年間でサービス給付費が2・3兆円増えた)ので、これらの人に筋力トレーニングや栄養指導などを行って、介護サービスを受ける必要のない身体にしてもらう(体力をつける)ということだろう。

 大変なことだ。支援が必要だったり、介護が必要な高齢者が筋力トレーニングをしたら、却って死期を早めるのではないだろうか。私は、まだ高齢者の範疇には入らないが、それでも普段やりつけないことをやると、数日間筋肉痛に悩まされる。それを、もうかなりの期間、運動などやったことのない人にやらせようというのは無理があるのではないだろうか。
 一旦、介護を受けて楽をしてしまった人に、また、
「筋力をつけて自分でやるようにしなさい」というのもどうなのだろうか。言われた方も、
「はい、そうですか」とはいかないだろう。
 穿った見方かもしれないが「現代の姥捨て山」にならないだろうか。

 しかし、予備軍(やがて「要支援」や「要介護1」の認定を受ける人)に対してはいいのではないだろうか。認定を受けるのを先延ばしする効果はあると思う。以前、人間ドックの院長先生に聞いたのだが、これからは「病気を治す医学」ではなく「病気に罹るのを防ぐ医学(予防医学)」の時代だそうである。
 このブログの『福祉』にも書いたが、今の高齢者は手厚い福祉サービスを受けている。この先、若年層が益々減っていくと、将来の高齢者は現在の高齢者と同じサービスは受けられなくなると思われる。その為にも、今、高齢者の入り口にいる人たちに対して、筋力トレーニングや栄養指導などを行う必要があるのではないだろうか。
by yousui-nobidome | 2004-11-30 00:12 | 日本を考える

福祉

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(自宅の近所の公園に建設中の『児童センター』です。完成間近)

 今朝の朝日新聞の社説「児童手当にめりはりを」を読んで驚いた。国と地方を合わせた社会保障給付の70%が高齢者向けであり、その反面、児童手当や保育所など児童・家庭向けは4%にすぎないそうだ。何たる格差なのだろうか、まったく驚いてしまった。子供は総て自己責任で生んで育てろと言うことなのだろう。であれば、子育て中の夫婦の税金を安くし、社会保険料も安くして、少しでも子育てに使えるようにしてもらいたいものだ。
 そういえば、街中に老人福祉センターはよく見かけるが、児童館は余り見かけたことが無い。学校のそばに『学童クラブ』があるが、おしなべて経営が苦しいようである。狭い敷地にみすぼらしいプレハブの小屋みたいなのが建っていて、狭い庭には傾いた鉄棒とブランコがあるだけ。その反面、老人福祉センターの何と立派なことか。
 休日や平日でも、老人はバスの送迎付きで老人福祉センターへ向かい、日がな一日ノンビリ過ごしているようだが、子供たちは放課後、狭苦しい学童クラブで過ごさなければならない。将来のある子供たちが、こんな小屋で過ごしているのかと思うとかわいそうでしょうがない。幸いにも私は共稼ぎではないので、子供たちは学童クラブのお世話になったことが無い。でも、クラスメートのかなりの子は学童クラブで過ごしているようである。学童クラブの維持費もかなりかかるらしく、親の負担も大変なようである。

 老人にもっとみすぼらしい生活をしろといっているのではない。将来のある子供たちに、もっと眼を向けて欲しいのである。老人だけが社会保障給付を受けられるというのは、どんな論理なのだろう。歳をとれば一律に社会保障給付を受けているのはどうなのだろうか。財産がある人(殆どの老人はリタイヤしているので、収入は年金のみ。所得で判断するのは適当ではない)は、それなりの負担をしてもいいのではないだろうか。その分を子供に回せば一石二鳥ではないだろうか。
 
by yousui-nobidome | 2004-11-29 22:34 | 日本を考える

最近の若い者は・・・・・

(写真は内容とは無関係です)
a0006530_23161867.jpg 最近の若い者はなかなかやるな~と思いました。普通、「最近の若い者は」というと、大体、若者への苦言でしたが、今回は違います。朝日新聞11月27日(土)の「私の視点」に『◆中東和平 草の根交流で見えた希望』と題して、国際基督教大学生の安田祐輔さんが寄稿していました。
 安田さん達「日本・イスラエル・パレスチナ学生会議」は、イスラエル人学生6人とパレスチナ人学生4人(当初6人の予定が、現地の情勢悪化で2人が出国できなかった)を日本に招待し、3週間にわたってディスカッション、ワークショップ、市民交流会などを行ったそうです。通常の大人であれば、敵対する者同士を招いての行事は開催しようなどとは思わないことでしょう。安田さんたちも準備段階では不安を感じていたようです。しかし、そこが若さのなせる業というのでしょうか、(準備等多大な労力がかかったことはあるでしょうが)あっさりと実行し、成功裏のうちに終わったようです。意外にもイスラエル人とパレスチナ人の結束は、日を追うごとに固くなっていったそうです。
 今、参加者の一部の人は、ウェブサイトを作りイスラエルとパレスチナ双方の、普段考えたり感じたりしていることを発信しあうことで、双方の信頼を深める試みを行おうとしているそうです。
 大人は過去のしがらみや、大義名分、固定観念、あるいは失敗を恐れるあまり自由な発想というものができなくなっているのではないでしょうか。若者の失敗を恐れぬチャレンジ精神や行動力等があれば、不可能なことでも可能にしてしまうのではないかと思えました。多くの若者がこのような前提に立って何かをやってくれればな~、と考えているのは私だけではないと思います。
 ただ、今回は同じ大学生同士の交流でした。だから結束ができたと思います。イスラエルにもパレスチナにも、依然として過去の対立を胸に刻み込んでいる人たちがいます。今回の成功を手放しで喜ぶことなく、もっと深く理解しあえるような活動を希望しています。
by yousui-nobidome | 2004-11-28 23:57 | 日常生活

明日の記憶

 11月6日に「万引き」で取り上げた『明日の記憶』(荻原 浩 著)の感想文を書きました。本は私が朝の通勤時に聞いているTBSラジオ「森本毅郎・スタンバイ」の「トークパレット」木曜日のブックナビで本の雑誌社・顧問の「めぐろこうじ」さんが10月28日に紹介していたものです。
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★簡単にあらすじを書くと、若年性アルツハイマーに罹った男の発症期から次第に記憶が消えていくまでの物語です。若年性アルツハイマーに罹った男は佐伯といい、50歳の広告代理店の営業部長です。

★佐伯は会社に「若年性アルツハイマー」に罹ったことを言い出せません。いや、ある理由から言い出さないのです。その為、非常な努力をします。仕事で会った人から貰った名刺には、何時何処で何のために会ったのか、そこでの会話や約束したこと、果てはその人の似顔絵まで書き込みます。部下との会話や取引先の担当者との話まで克明にメモします。それらのメモが、最初はシステム手帳にされるのですが、その内にシステム手帳には収まりきれなくなります。

★アルツハイマーの症状がだんだん進んでくると、生活習慣や生活様式も変えざるを得なくなります。昔やっていた陶芸を再開するのですが、ここでもアルツハイマーのせいで人に裏切られます。

★やがて、部下に裏切られ、会社に
「部長はアルツハイマーだ」と告げ口されてしまい、ポストを異動させられ、やがて退社となってしまいます。

☆私がショックを受けたのは、佐伯が私とほぼ同じ年齢だからです。また、次のようなアルツハイマーの初期症状のようなこともあり、他人事とは思えませんでした。

☆アルツハイマーに罹ると、最初に曖昧になるのがごく最近の記憶だそうです。私にも思い当たるふしがあります。出かけようとして、家の玄関を出たときに何かをし忘れたことに気づき、家に取って返すのです。でも、家の中に入ったとたん、何をするために家に戻ったのか、忘れてしまっているのです。暫らく考えていても思い出さないので、また家を出ます。すると、やっとなんだったのかが分かり、今度はシッカリと頭に刻み込み、再び家に戻る、といった具合です。
 また、仕事を終えて帰る際、
「明日はあれをやろう」と決めて帰宅するのですが、明日になると
「あれ? 今日は何をするのだったっけか」となってしまうこともありました。暫らく書類仕事をしていると思い出してきます。まだ仕事のミスには繋がっていないのが幸いですが不安です。

☆アルツハイマーに罹った場合、大事なのは周囲の理解を得ることだと思います。温かな眼で見てもらいたいと思います。でも、それにはアルツハイマーに罹る前の人間関係を、良好に築いておく必要があると思います。佐伯も妻と娘の3人家族ですが、家庭(家族)関係は良好であったようです。妻のサポートが唯一の命綱として描かれています。会社では、家庭ほど甘いものではないので、理解は得られず部下の裏切りにも会ってしまいます。
 私の場合はどうなるのでしょう。唯一の命綱である妻のサポートは受けられるとは思います。子供はどうでしょう。今のところ、一番下の娘の理解やいたわりは受けられそうです。会社はどうでしょうか。まず、見込み薄です。口では
「大変ですね~、頑張ってください」とは、世間体から言ってはくれると思いますが、親身になった心配をしてくれる人は皆無でしょう。これは、今までの私の人生での至らなかった点でしょう。

☆会社に残ろうと思うかですが、私の場合はあっさりと白状して、サッサと止めてしまうかも知れません。少しでも意識のあるうちに、好きな趣味の世界に浸りたいと思いますから。今でも早く定年になって、一日中好きなことをやりたいと願っているのですから。
 でも、家のローンがまだ大分残っているので、難しいかもしれません。家のローンを組んだ際に入った生命保険の約款を確認してみる必要がありそうです。重度の精神障害は死亡と同等に扱ってもらえるかもしれません。
 佐伯にはローンは無いみたいでした。でも、世間に対する見得があって、ある時期までは退社したくない状況のようでした。

★小説はアルツハイマーとは、こんなに悲惨なものであるということを教えてくれました。重いテーマの小説でした。でも、終わりが爽やかであったので、読み終わったときは爽快感を感じました。著者の筆力が優れているのでしょう。
帯に
人ごとだと
思っていた
ことが、
我が身に
起きて
しまった。

とあります。「明日は我が身」という言葉もあるので、そのことを今から考えていても遅くないと思っている、今日この頃です。
by yousui-nobidome | 2004-11-28 17:30 | 日常生活

三菱ふそうトラック・バス

 朝日新聞11月24日の夕刊によると、「11月23日(勤労感謝の日)、関越道の高崎市付近で、またまた三菱ふそうトラック・バス製の観光バスの右後輪2本が脱落する事故」があったそうです。うち1本のタイヤが中央分離帯のガードレールを飛び越えて反対車線を走っていたトラックと乗用車にぶつかったようです。事故の被害が書かれていないので、多分、大事故には至らなかったようですが恐ろしいことです。私は21日(日曜日)に関越道を走っていましたのでショックを受けました。私が走っていたとき観光バスや大型トラックも走っていたからです。何キロにもわたって併走しておりましたので、その時にタイヤが外れなくて良かったと思っております。
 三菱ふそうトラック・バスは今回も「整備不良の疑いもある」と言っているそうです。本当なのかなと思います。全国で大型トラックやバスの脱輪事故ってどのくらい起きているのでしょう。新聞はその内の三菱ふそうトラック・バスの事故だけを報道しているのでしょうか。それとも三菱ふそうトラック・バス製のトラックやバスを使用している事業所は、おしなべて「整備不良が多い」のでしょうか。
 ともあれ、いつタイヤが外れてしまうか分からないトラックやバスがその辺を走り回っているというのは恐ろしいことだと思います。構造に欠陥があっても、皆がみな、一時期に全部のボルトが折れてタイヤが外れてしまうわけではないだろうから、同社製のトラックやバスを使っている事業所は日頃の整備・点検を怠らないで欲しいなと思います。
 そして、三菱ふそうトラック・バス社製のトラックやバスには近寄らないようにしましょう(笑)。
by yousui-nobidome | 2004-11-25 06:18 | 日常生活

景観権

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 国立市の方で『景観権』をめぐって裁判があった。駅前の「大学通り』に14階建てのマンションが建てられたが、
「大学通りの景観を壊すから、7階以上の部分を取り壊せ」と住民が提訴したものである。1審は住民側の勝利であったが、2審は住民側の敗訴となった。
 a0006530_16263245.jpg マンションを建てた業者は、提訴を受けたときにはビックリしたことと思う。何も法律や条例違反をしていた訳ではないし、建築確認も受けていたのである。市側は慌てて条例を作ったり、反対住民側に立つ人を市長にしたりしたが、無駄だったようである。
 私は美しい景観は残すべきだし、大切に保存していくべきだと思う。しかし、それは残すべき価値があるものに限定すべきだと思う。景観を保護するということは、他人の権利を制限することに他ならないからである。


a0006530_1632391.jpg 国立市の大学通りは、私も花見に出かけたことがある。桜並木になっていて見事な花を見せていただいた。しかし、高層マンションができたから景観が損なわれるというものではないだろう。周りは商店が連なっているが、雑多な印象を受けた。とても景観論争を起こすようなところではない。一部の住人が、
「今まで見慣れてきた景色が変わるのはイヤだ」と我儘を言っているように思える。
 景観を守ろうとするなら、自分たちも犠牲を払わなければダメで、他人がやることにケチをつけるだけではダメだと思う。マンションが建った土地が売りに出たときに買い取ればよかったのであろう。


a0006530_1645452.jpg この4枚の写真は私が住んでいる地域の写真である。私は、このような農地が残っているので、ここに住むことにしたのである。ところが、最近、農地がドンドン宅地化され、建売住宅が建てられている。これに対して、「景観権」をたてに住宅建設反対を唱えても、誰も取り合ってくれないだろう。それは自明の理である。
国立市の場合もそうではないのだろうか。
2審判決でも
「行政が総合的な見地から施策を推進すべきで、一部の住民に権利・利益を認めれば、かえって調和のとれた景観形成の妨げになる」といっている。
by yousui-nobidome | 2004-11-22 16:57 | 日本を考える

私は犬(を飼う人)が嫌いだ

a0006530_15104044.jpg 私は犬が嫌いだ。もとは犬が好きだったし、子供の頃は家で犬を飼っていた。だから嫌いではないのだが、最近嫌いになった。犬には責任は無い。飼っている人に問題があるのだ。そう、(総ての犬を飼っている人ではないが)犬の糞の後始末をしない人が多いのだ。 私の住んでいる地域は、家はまばらで畑が多く残っており、犬を散歩させるのにちょうどいい環境である。こんなにいるのかというくらい、犬を散歩させている人が多い。大抵の人は、犬の糞をかたづける用意をしている。しかし、人の眼がないと片付けないでそのまま行ってしまう人が多い。私が踏みそうになったのは1回や2回ではない。そういう人は朝早くに犬を散歩させている。早朝出勤をしたとき、まだ湯気を上げているものに遭遇した。その近くを犬を連れている初老の女の人がいた。私と目があったら、そそくさと足早に離れていった。注意しようと思ったが、(100%その犬のものと分かっていたが)証拠が無いので止めにした。その初老の女性は片付ける用意はしていた。
 糞の他に、小便の問題もある。印付け用なのでやたらと臭い。それを、電柱以外の塀や他人の家の門柱にまで印を付けるのである。あるとき、鳥居やお地蔵さんにまで印を付けていたところを目撃したことがある(当然飼い主はついていた)。習性だからといって捨てておけるわけにはいかない。せめて家の門柱には止めろと言いたい。
 私の地域の人たちも困っているようで、通りに面した家では
「犬に糞や小便をさせないでください。犬の糞や小便で困っています」といった注意書きが貼られている。↑の写真は畑に立っていたものである。犬の飼い主は、糞は肥料になるとでも思っているのだろうか。あきれてしまう。
 こういった人達は『犬を飼う資格が無い』
犬畜生にも劣る人間には『犬を飼う資格は無い』と声を大にして叫びたい。

 ということで、私は犬が嫌いになってしまった。
by yousui-nobidome | 2004-11-22 15:59 | 日本を考える

ドラッグをめぐる報道について

エヌエイチケイ
 『宇宙の排泄物』というブログの「エヌエイチケイ」kinya_0805さんへのお便りです。

1 報道姿勢について
 報道機関がニュース以外のドキュメンタリー番組をつくる場合、まずテーマがあって、どういう結果にするかという流れを作ってから、番組制作に入っていくと思います。kinyaさんが仰っている番組は、まさに『ドラッグ撲滅キャンペーン』でした(と思います)ので、ドラッグ肯定派の人には「偏っている」と感じる内容になってしまうのは自然な流れだと思います。

2 ドラッグはいけないものか
 次に、ドラッグは一方的にいけないものとしていいのかどうかです。
 私は『いけないもの』だと思います。昔から宗教上必要なものだったというのは 分かります。以前、幻覚を起こすキノコが流行った(?)ことがありました。食べた何人かが死にました。このキノコは(確か)メキシコのマヤ文明の宗教用とかでした。日本でも明治時代のアイヌの人達は「酒を飲んで泥酔することは神を喜ばせるため」という信仰があったそうです。たぶん、日本人も宗教上の理由で飲酒をしていたものと思えます。日本の「おおあさ」のことは知りません。宗教で用いるものであるならば、厳格なコントロールの元に使用されていたものと思われます。
 しかし、現在、宗教とか歴史があるといって、人間に有害なものを肯定していいのでしょうか。昔は科学が発達していなかったので、ドラッグを使用し続けていたのかもしれません。ドラッグは身体に有害という結果が出ています。それを野放し状態で放置いていていいわけないと思います。
 マリファナや覚醒剤の中毒で、幻覚や幻聴が起きて人を殺傷する事件が起きています。脱法ドラッグがどういう作用を及ぼすかは知りませんが、人の身体を蝕むことは間違いないと思います。
 従って、私は「ドラッグ=悪」だと思います。

3 おまけ
 今の日本には「合法」ドラックとして、酒(アルコール飲料)とタバコがあります。(二十歳を過ぎたらですが)この二つでいいと思います。新たなドラッグに身を染めることは無いと思います。酒だけで、何万人もの人が、肝機能障害やアル中(精神障害)で苦しんでいます。これ以上、新たなドラッグの被害者を出すことは無いと思います。
 
by yousui-nobidome | 2004-11-20 17:25

きよせの森

きよせの森ハイキングコースa0006530_15444351.jpg
私の住む町に「きよせの森」病院というのがあります。嬉しくなってトラックバックさせていただきました。


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by yousui-nobidome | 2004-11-20 15:46 | 日常生活

教師と生徒

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 「古きよき時代」の(蛇足)に
「今のサラリーマン化した教師に「修身」は教えられない」と書いた。多分、反論を受けるだろうと思ったので、先に「その理由」を述べてみたい。

 今の時代、『教員免許』を持っていても教師として採用されるのは至難の業だということを聞いたことがある。以前、私が住んでいたマンションに教員を目指していた子がいた。教員免許を取得して大学を卒業したが、教員に採用されず就職浪人となっていた。時々、代用教員(育児休業等で長期休暇を取る教員の臨時教員)の口がかかっていたようであるが、正式な教員としては採用されなかった。真面目で気立てもよく、人柄も良かったのだが。

 それ程の狭き門であるから、教師として採用された者は超エリートであろう。多分、学生時代も真面目に勉学に励み、犯罪は勿論、小さな問題さえ起こさなかったはずである。採用数が少ないのであるから、採用する側も小さなキズは見逃さないはずである。その様に『いい子』で育ってきて、挫折を味わったこともないだろうとも思う。まさに、順風満帆の人生であったと思う。

 ところが、教える生徒たちはどうであろうか。その教師自身のような者が何人いるのだろうか。皆無ではないだろうか。いたとしてもせいぜい一人か二人いればいいほうだろう。落ちこぼれも少なくないはずである。
 落ちこぼれたことがない人間に、落ちこぼれた子をどうやって救い上げることができるのだろうか。挫折したことのない人間に、挫折した子の心の内が分かるのだろうか。
 自分のことを理解してくれる教師がいないから、
「センコー、センコー」といって教師を馬鹿にし、教師が嫌だからという理由で不登校になる子が後を絶たないのである。

 私は、落ちこぼれや挫折を奨励しているのではない。今の教育システムは、そういったエリートに、エリート以外の人の心を分からせようという教育をしていない。ここが問題なのである。
 一度、教師として採用されると、犯罪を犯さない限り、勤務成績が悪くてもクビになることはない。教師としての力を発揮できなくても、まずい学級運営を行っても、問題を起こしても、教育委員会付きとなって生活は保障される。
 今、教育改革ということで、教師免許の書き換え制度が論議されているが、私に言わせれば、遅きに失した感が否めない。
 
『修身』とは、他人の心の内を分かろうとし、他人を慮る心を育てることが第一の目的であると思う。今の教師にこんなことできますか。
by yousui-nobidome | 2004-11-18 23:20 | 日本を考える